洛友会について
洛友会は京都大学体育会バスケットボール部のOB·OG会組織の名称です。令和5年の段階で会員数も900名近くになりました。創部以来の活動の歴史を簡単にご紹介します。
創部から黄金期まで
京都大学バスケットボール部の歴史は大正時代に遡る。大正14年大阪高校から今堀克己が、翌15年には第三高等学校から小島公平、甲南高校から雀部尚宣、矢倉俊行が京都大学に入学。それぞれの出身校でバスケットボール(当時、関西では「籃球·らんきゅう」と呼ばれていた、昭和6年に関東と同じ籠球·ろうきゅうに統一)に情熱を注いでいた連中が京都大学に集まり京都大学籃球部が創部され、大正15年5月11日に初ゲームを第三高等学校のコートでおこなった、との記録がある。
同年10月14日には農学部グランドの一角に自前のコートが完成し、10月18日には当時の東京大学と第三高等学校の籃球部を招待してコート開きをおこなっている。
以降、昭和3年に念願の京都大学学友会(現京都大学体育会)の運動部として認められ、東京大学との定期戦も正式に始まった。昭和5年には関西選手権秋の部で初優勝し、昭和7年~9年にかけても春の部、秋の部で繰り返し優勝して関西では確たる地位を築いている。 昭和12年~18年にかけては、春の部で7年連続優勝、秋の部で6年連続優勝し、名実ともに全国で京都大学の名を馳せ、黄金期を迎えた。
ベルリンオリンピック
国際試合に関しては、昭和6年にフィリピンのセント·トーマス大学と対戦したり、当時の中華民国チームと対戦した記録が残っている。海外遠征をおこなったとの記録もある。
昭和10年には来日した米国代表チームと試合をおこなったがさすがに64対32で敗れている。このような中、昭和11年のベルリンオリンピックで初めてバスケットボールが五輪種目として採用され、京都大学籠球部からは、その輝かしい大会にコーチとして三橋誠(昭和8年卒、後に日本バスケットボール協会会長)、キャプテンに松井聡(昭和14年卒同·副会長)を送り出している。韓国代表で出場した廉殷鉉(昭和16卒)は翌年京都大学に入学し、仲間に加わった。
この他にも昭和12年~17年にかけて多くの国際試合が開催され、京都大学籠球部のメンバーが活躍した。昭和14年はベルリンオリンピックで2位だったカナダの代表チームが来日し全日本チームと対戦したが、全日本チーム14人中4人が京都大学メンバーであった。
戦争そして戦後へ
太平洋戦争が始まり、残念ながら大会の多くが一時期中止されたが、戦争が終了し各地の大会も再開されると、昭和21年、22年には関西選手権を連覇した。
その後は、戦後の困難期を経て引き続き代々のメンバーが活動を支えてきた。戦後もまともな体育館での練習はままならず、梁が邪魔してロングシュートが打てない旧教養部の武道館か百万遍に設けられたコンクリート敷きの屋外コートが練習場所であった。屋外コートは途中で板張りに替えられたが、穴が開いて危険になり、アスファルト敷きになったとのこと。屋内での練習機会を求めて洛北高校や鴨沂高校、近隣の中学校の体育館を転々としたようだ。
昭和28年に関西リーグ1部から2部に初めて転落、その後は1部と2部を行き来する時期もあったが、残念ながら大きな大会でタイトルに名を残すことができていないままになっている。
しかしながら、京都大学バスケットボール部の活動は1年たりとも途切れることなく、その伝統は昭和、平成、令和と今日まで脈々と引き継がれている。
女子部誕生
男子部に較べ女子部の歴史は比較的新しい。女子生徒が初めて京都大学に入学したのは昭和21年のことであるが、昭和30年代になっても女子の入学はまだ各学部で数えられるほど少なく、女子の入部を求める運動部も極めて少数であった。
このような中、昭和39年に3名の女子バスケットボール経験者が薬学部に入学、男子部からコーチやマネージメントの応援を受け活動が開始された。昭和41年に新入生や2回生から4名が参加し、当時のバスケットボール部長であった満田農学部教授(後出)の快諾のもと正式に京都大学女子バスケットボール部が創部された。百万遍の屋外コートで男子部の合間に練習し、吉田山にランニングして体力を鍛えたという。
創部後は、昭和41年早々に男子部と合同で皇子山合宿を実施、京都リーグ、近畿国立大学体育大会への参加をおこない活動の場を広げた。関西リーグにも加盟して京都大学体育会運動部として活躍した。
百万遍に総合体育館完成
昭和47年3月8日、京都大学創立70周年記念事業の一環で百万遍に待望の総合体育館が完成した。長らく続いた屋外コート時代から本格的な体育館での活動がようやくできるようになった。この体育館の完成までには関係者の長い歴史があるが、バスケットボール部OBでバスケットボール部の部長であった農学部満田久輝教授(昭和12年卒)が第5代京都大学体育会会長となり大きく前進して実現したのである。
この年、七大学戦はこの真新しい体育館を中心に催され、京都大学が4度目の総合優勝を成し遂げている。
京都大学体育会会報誌 濃青1972号より
創部50周年を迎える
昭和50年6月14日、創部50周年記念式典が京都ロイヤルホテルで盛大に催された。戦前の黄金期のメンバーも多数参加され、関西学院大学、関西大学、同志社大学、東京大学他多数の他大学の関係者も列席いただいた。この機に、50周年記念誌の「懐古帳」が編纂され、創部から戦前の籠球部黄金時代の詳細な記録が取り纏められた。
満田五兄弟功労賞受賞
前出の第五代体育会会長満田久輝教授は五人兄弟の三男であったが、他の四人の兄弟も前後して京都大学に入学し籠球部に在籍した。それぞれ旧制高校時代から名プレイヤーとしての誉れが高かったが、入学後は籠球部黄金時代の原動力となった。また、卒業後は主に関西でのバスケットボールの普及に大いに活動された。
長男 久敏 大阪医大名誉教授
次男 久博 日本伸銅会長
三男 久輝 京都大学名誉教授
四男 久和 満田外科病院医院長
五男 久康 日伸地金社長
昭和52年1月9日にバスケットボールの発展に寄与したとして、代々木第二体育館にて日本バスケットボール協会から功労賞を受賞。高松宮殿下より表彰を授与された。
昭和から平成、そして令和へ
京都大学バスケットボール部の活動は活発化し、毎年多数の新人が入部するようになっている。主務やコーチ陣の体制も整備され、念願の関西リーグ1部への復帰も近いところまで到達した時期もあった。男子部は昭和50年代~60年代は2部3位~4位のところで何度も一部の壁に跳ね返された。平成に入ってからは2部の中位に位置することが多くなり、3部での戦いを時々強いられている。
残念ながら一部昇格の目標は令和になった今日まで果たせぬままになっているが、名誉ある地位を確保するため日々努力しているのが事実である。以下、熱き戦いについてご紹介する。
1.東京大学との定期戦(双青戦)
東京大学との定期戦は創部以来の伝統である。毎年5月~6月頃に東京か京都で交替でおこなわれる。OB·OGも多数応援に駆け付けるため、この戦いに勝つことはチームとして大変重要な意味がある。
この定期戦を双青戦と呼ぶように、東京大学がライトブルーのユニフォーム、京都大学がダークブルーのユニフォームと昔から決まっている。ダークブルーは京都大学のスクールカラーである。この戦いの後は、同学年ごとに街中に繰り出し、確実に友情がはぐくまれる。
2.七大学定期戦
国立七大学(北海道大学、東北大学、東京大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、九州大学)のバスケットボール部の定期戦は北海道大学の呼びかけで始まり、昭和30年に男子部の第一回大会が開催されている。以降、七大学の持ち回りで毎年夏におこなわれるようになり、昭和36年は初めて京都大学主管でおこなわれた。
昭和37年には各運動部単位でおこなわれていた定期戦を北海道大学の体育会委員長·阿竹宗彦氏の尽力で総合体育大会化され、学生の手でおこなわれる全学かけての対抗戦になった。北海道大学のクラーク会館横には平成22年の第50回記念時に七大学総合体育大会発足記念の石碑が建てられている(なお、阿竹氏は京都大学に在籍したのちに北海道大学に転学された方である)。京都大学としても七大学戦は重要な大会となっており、この中で選手同士の交流が生まれることも珍しくない。
3.女子部の活躍
女子部は、昭和41年の活動開始以来、学生運動の影響や一時的に部員数の不足などで活動休止した時期もあったが、昭和50年に男子部のマネージャー2名が中心となり活動再開、昭和52年から新入生も入部しチームを再結成した。女子バレーボール部からユニフォームを借用したため、4番からの番号ではなく1~3番を付けたという逸話も残っている。
しかしながら、以降、着々と活動を重ね、関西学生リーグはもとより西日本学生トーナメント、京都学生トーナメント、七大学定期戦、他多くの大会に参加して活躍している。
特に、平成7年の関西学生リーグでは3部で2位となり、入れ替え戦に勝利して初めて2部に昇格。この年のエース中川真紀が関西学生リーグ最優秀選手賞を受賞している。
また、平成21年から平成24年までの間は七大学定期戦で4年連続優勝を果たした。昭和52年から続く女子部七大学定期戦の中でも初めての偉業である。平成23年には関西学生リーグでも3部で優勝し2部復帰を果たしている。
4.国際交流
戦前の輝かしい時代は別として、昭和から平成の時代には京都を来訪した海外の大学チームとの親善試合に京都大学からメンバーが参加したことはあったものの、単独チームで海外の大会に参加したことはなかった。
平成29年6月、香港でおこなわれた香港理工大学創立80周年記念招待トーナメントに招待され、京都大学男子バスケットボール部が単独チームとして参加した。アジアから招待された計4チームとそれぞれと交流試合をおこない、ファウルの取り方が違うなど戸惑いはあったものの、異なる文化圏の仲間との交流は貴重な経験を得る機会となった。
100周年に向けて
京都大学バスケットボール部は令和7年に創部100周年(女子部60周年)を迎える。関係者一同100周年に向けて現役応援、会員相互の親睦を図り、京都大学バスケットボール部がますますの発展を遂げられるよう活動することを約束したい。
以上